インターネット・リアリティ・マッピング(4)「エキソニモとライダー・リップス(前編)」

インターネット・リアリティ・マッピング(4)「エキソニモとライダー・リップス(前編)」

水野勝仁
水野勝仁 (ID145) 公認maker 2014/10/14
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「ネット≒リアル」と「ネット↔リアル」

ライダー・リップスのネットに対する感覚の根っこを探る

まずは、この画像から見てもらいたいと思います。今回取り上げるアーティスト、ライダー・リップスの自撮りの画像です。彼は空手着を着ています。リンクを飛んでもらうと、さらに画像があって、空手着の背中には「Red Bull」のロゴがあって、脚の部分には「スポーツとしてのコンセプチャルアート」と書かれています。一体、空手着を着たライダー・リップスは何をしようとしているのでしょうか。

ライダー・リップス=コンセプチャル・アーティスト

まずはライダー・リップスの簡単な紹介をしておきましょう。リップスは1986年生まれの28歳で、ニューヨークを拠点に活動しています。有名な作品・プロジェクトとして、画像でチャットをしていく「dump.fm」や、閉鎖されたアメリカYahoo!のgeocitiesのアーカイブ「Internet Archaeology」などがあります。リップスはアーティスト活動と並行して、OKFocusというデジタルデザインの会社もやっています。彼は自分のことを「独立(ビジネスオーナー)のことを心配して、(技術、未来について)すぐうんざりしてしまうコンセプチュアル・アーティストだね」(MASSAGE 9( http://themassage.jp/ ) p.84)と言っています。

>dump.fm
http://dump.fm/
>Internet Archaeology
http://www.internetarchaeology.org/
>OKFocus
http://okfoc.us/


空手着を着たリップスに戻りましょう。これは2013年に行なわれた「Hyper Current Living」というパフォーマンスの際のリップスの自撮りになります。「Hyper Current Living」は、リップスがRed Bullを飲みながら延々とアイデアをツイートしていくというパフォーマンスです。ツイートするだけなら、別に自分の身体をネット上に出す必要はないのですが、リップスはわざわざ空手着をつくって、それを着て、自らの身体をネットに晒しながら、アイデアを練って、それをツイートしていきます。前回比較したJodiとエキソニモでは、Jodiが「遊ぶ身体」で、エキソニモで「消える身体」だったので、「スポーツ」という言葉を使うリップスはJodiに近いと言えるでしょう。

コンセプチャルアートとしてのスポーツ

でも、ここで言われている「スポーツ」は「コンセプチャルアートとしてのスポーツ」なんですね。この言葉はとても面白いところがあります。頭でっかちな感じがする「コンセプチャルアート」と身体性が強い「スポーツ」という普段隣り合うことがない言葉が組み合わせされているからです。リップスはこのギャップを際だたせるように空手着を着ているし、身体を強く刺激するRed Bullを飲むわけです(企画のスポンサーということもありますが…)。ここだけみている、どこか悪ふざけをしているだけのような感じも受けます。

リップスは「スポーツとしてのコンセプチャルアート」を結構まじめに言っていると思います。それは、このパフォーマンスがソーシャルメディアのなかの「アイデア」の流れを考えた「シリアス」なものだからです。リップスはこのパフォーマンスで、ツイートされる文字列が示すアイデアそのものをプロダクトに仕立てています。それを可能にするために、リップスはTwitterのタイムラインを「生産ライン」と見立てます。Red Bullを飲みながら、出来る限りのアイデアを練って、それをツイートしていき、それがリツートやファボラれる。その反響を直に感じて、リップスはさらにアイデアを練る。そのあいだに前にツイートしたアイデアはソーシャルメディアのストームのなかであっという間に消え去っていく。アイデアが生まれてはあっという間に消えていくような生産即消費といったような急な流れが「生産ライン」とされるわけです。

だから、このプロジェクトでは「生産ライン」を流れていく「140文字以内」のテキストが重要になるはずなのですが、そのアイデア自体は「子猫の涙でできたオンライン上の孤独な少女のための洗顔料」といった真面目なのかふざけているのかわからないものが多いです。そのうえ、リップスは空手着をきているわけです。この「ユーモア」と「シリアス」のバランスがプロジェクトをコンセプチャルなものにしているのかもしれません。社会を憂いてそれを救うようなアイデアやアートワールドをうならせるようなアイデアばかりツイートしていたら、そのツイートのみが拡散して、そのソースに位置にするリップスの身体は忘れられてしまって「スポーツ」から離れてしまいます。ちょっとくだらないアイデアが何かの拍子で誰かのタイムラインにのっかり、それを見た人がちょっとした興味で「Hyper Current Living」を覗いてみると、空手着を来た男の人がツイートしているのを見て、「何やってんだ、この人」という感じで見ていると、少しくだらないツイートがされて「この人なら納得」となって、そこで身体=スポーツとアイデアが結びつく。リップスはこのような絶妙なバランスを保ちながら延々と続けることで、そこに「スポーツとしてのコンセプチャルアート」を誕生させたといったら言いすぎでしょうか。

7年間のFacebookでのすべてのやりとりを公開

でもまだ、リップスが空手着を着て、ネットに自分を映しながらパフォーマンスをする真の意味は掴めていないような気がします。ここでユーモアを超えたところにあるリップスのネットに対する感覚の根っこの部分を掴まないとエキソニモと対比ができないので、もうしばらく彼の作品を考えていきたいと思います。お付き合いください。

リップスのユーモアあふれる作品やプロジェクトの根本にあるものは何なのでしょうか。そのことを知るためのヒントが《Ryder Ripps's Facebook》(2011)にあるように思われます。7年間のFacebookでのすべてのやりとりをダウンロードできるこの作品は、作品解説のかわりに付けられた複数のタグのひとつ「ファイルとしての自己」という言葉が示すように、Facebook上のリップスの7年間がすべて格納されているわけです。

>Ryder Ripps's Facebook
http://ryder-ripps.com/ryderripps_facebook/

7年間におけるFacebookの全記録というとてもパーソナルなものをパブリックアートにしてしまうという発想の大元にはプラバシーを問題視するといった使命感というよりも、「えええええー、そんなことするのー」というような驚きとプライバシーそのものへのユーモアを感じます。この作品が置かれたリゾームの「ダウンロード」プロジェクトの解説はこのことをうまく説明してくれています。それは「誰かの過去、知りたいよね?」という好奇心を利用して、どんどんと流れていってしまって一向に振り返る機会を与えられないネットでの「過去」を振り返るための唯一の手段を《Ryder Ripps's Facebook》は提示しているというものです。なんでネットの記録が他の人の好奇心を煽るかというと、どこかにスキャンダラスなことが書かれているのではないかと多く人が考えるからです。確かに、《Ryder Ripps's Facebook》は少し見ただけだと、面白いエピソードでもないかなという「ゴシップ」感が強いものです。

>リゾームの「ダウンロード」プロジェクト
http://rhizome.org/the-download/2011/nov/

延々とスクロールしつづけた先にある「ほぼリアル」

しかし、《Ryder Ripps's Facebook》を実際に「すべて」見てみると、その感想は全く異なるものになります。《Ryder Ripps's Facebook》には膨大な量のテキストと所々に挟まれるイメージがアーカイブされていますが、それらはもちろんリップスの7年間のすべてではありません。それは単に7年のあいだにリップスがFacebookというネットサービスに向けて1日24時間のうちの数分をかけて打ち込んだテキストやネット上でちょっと気になった画像や映像が集まったものにすぎないものです。それでも、MacBook Proのなめらかなトラックパッドの上で指を滑らせても滑らせても全く終わらず、手が痛くなってきてもまだまだスクルロールバーが半ばくらいにしか行っていないのを見たときの徒労感とともにスクロールをしつづけ、遂に最後まで到達しようとしたとき、私は《Ryder Ripps's Facebook》にリップスがFacebookとともにあった7年間の「ほぼすべて」を感じたのです。それはネット上のデータだけでしかないものだけれど、いやだからこそなのかもしれませんが、そこに残っているデータからリップスのリアルをリバース・エンジニアリングして立ち上げてしまったような感じです。だから、Facebook上のリップスの7年間をすべてスクロールした私は、リップスは「ネット≒リアル」と強く感じていて、それをアピールするために《Ryder Ripps's Facebook》をネットに作品として公開したのではないかと考えるようになりました。みなさんも一度、すべてスクロールしてみてください。スクロールしないとわからない感覚が、そこにあります。

リップスのネットへの感覚の根本にはネットとリアルは確かに違うところもあるけれど「だいたいいっしょのものとして考えてみたほうがいいんじゃないか」という感覚があると思います。リップスはこの感覚を様々な角度から示すために作品をつくっていると言えます。例えば、今回取り上げた《Ryder Ripps's Facebook》はネットの「ストック」の問題から、「Hyper Current Living」はネットの「フロー」を問題にしながら、それぞれそこに「ネット≒リアル」を表したものだと考えられます。《Ryder Ripps's Facebook》は7年間の全データという「ストック」を公開して、見る人がデータを延々とスクロールし続けることでリップスの「過去」がそこでリフローされるわけです。ここでは延々とスクロールしつづけて作品を見る人の身体に「ネット≒リアル」という感覚が立ち上がります。これに対して、「Hyper Current Living」は、アイデアの流れ、そして生きていることの源泉としてのリアルな「身体」をネット中継することが「ネット≒リアル」を体現する方法だったのです。とても単純なことですが、ネットに公開されながらツイートし続けるリップスの「身体」が「ネット」と「リアル」を「ほぼイコール」な関係として結びつけるのです。だから、空手着を着た自分を自撮りしてアピールすることは、「ネット≒リアル」と考えるリップスにとってその関係を簡潔に示す必然の方法だったのです。リップスの作品はどれもユーモアにあふれていますが、そのユーモアの先には「ネット≒リアル」という結構シリアスな感覚があるのです。

ライダー・リップスが「ネット≒リアル」だとすると、エキソニモは「ネット↔リアル」だと私は考えています。やっとエキソニモに移れます。でも、もう長くなりすぎたので、この先は次回にさせてください。すいません。

次回予告

エキソニモの2003年の作品《Natural Process》は「ネット↔リアル」の行き来を示していて、IDPW名義でのインターネットヤミ市も「ネット≒リアル」ではなくて、「ネットの感覚をリアルに持ち込む」という意味で「ネット↔リアル」なのではないでしょうか。「ネット↔リアル」「ネット≒リアル」のどっちが優れている/新しいではなくて、ネットとリアルに対するふたつの態度だと思います。世代によってこのふたつの態度のどちらを取るのかにはちがいはあるのかもしれない。そんなことを次回考えてみたいです。

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