インターネット・リアリティ・マッピング(6)「エキソニモとライダー・リップス(後編)」

インターネット・リアリティ・マッピング(6)「エキソニモとライダー・リップス(後編)」

水野勝仁
水野勝仁 (ID145) 公認maker 2014/11/12
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エキソニモとライダー・リップス:コンセプチュアルなテキストエディター
デジタル時代の「テキストエディト」

テキストエディタ

「怒りと笑いとテキストエディタを駆使し、さまざまなメディアにハッキングの感覚で挑むアートユニット」と自らを紹介するエキソニモ。ここで注目したいのは「テキストエディタ」という言葉です。「テキストエディタ」文字通りテキストを入力・編集するためのアプリケーションです。これまで「テキスト」というと「小説」や「詩」などの言語表現を指していましたが、今ではそこに「プログラム」も入ってくるようになってきています。「テキストエディット=文章編集」の枠組みがひろがっているのです。だとすれば、「テキスト」をめぐる想像力も「ハッキングの感覚」や「インターネット・リアリティ」のなかで変化していると考えられます。そして、エキソニモとライダー・リップスはこの「テキスト感覚」が特徴的なアーティストなのです。そこで今回は「テキスト」という観点から、エキソニモとリップスを対比していきます。

メタファーとリテラル

連作「ゴットは、存在する。」、《断末魔ウス》といったように、エキソニモは「メタファー」的というか、どこかギャグのようで意味深なタイトルをつけることが多いです。対して、リップスは《iPhone Poetry》、《Facebook Poetry》、《Refreshing Darkness》といったような言葉の意味そのものが作品を説明している「リテラル」なタイトルを作品つけることが多いです。「メタファー」というのは「AはBのようだ」というもので、異なる2つの物事をつなぐ表現で、「リテラル」は日本語にすると「文字通り」になり、言葉の意味をあえてひとつに限定していく表現です。私は「メタファー」と「リテラル」とのちがいをコンピュータやネットとの距離感における大きなちがいだと考えています。なぜなら、「メタファー」は「2つの世界」、つまり「現実と仮想」や「リアルとインターネット」を前提にしているのに対して、「リテラル」は「1つの世界」に限定していく方向にあるからです。これは前回までマッピングしてきたネットとリアルとの関係を「↔:行き来するもの」と「≒:ほぼ同じもの」のどちらで考えるかにつながってくるのです。

「AはBのようだ」という2つの言葉を結びつけるメタファーのちからは、「アナログとデジタル」「現実と仮想」という異なる2つの世界をほどよくリンクしていきコンピュータを使いやすくしていきました。その際に、メタファーは私たちの身体感覚をどんどんコンピュータの世界に移していきました。その結果として、ディスプレイ上の「ボタン」は「押す」ものであり、「ウィンドウの枠」は「掴める」ものなど、現実で行っている行為をディスプレイでしているような感覚を持ちだしたのです。その中心にあったのが「カーソル」という架空の存在です。このカーソルを軸にして、私たちは現実と仮想という2つの世界を行き来しているのです。そして、カーソルはエキソニモがたびたび作品のモチーフとして扱うものです。

対して、現在のスマートフォンはタッチ型インターフェイスのためにカーソルが必要ありません。そして、そこでは「押せるボタン」はまさに「ボタン」として実際に「押される=タッチされる」ようになりました。これはメタファー的に現実の行為を仮想に移すのではなく、現実の行為をそっくりそのままディスプレイに移すことです。インターフェイスの変化による行為自体の変化と、メタファーによって私たちの身体感覚がディスプレイのなかに移植されたことが相まって、iPhoneで表示される「ボタン」は「ボタンのようなもの」ではなく文字通り「ボタン」でなくてはならかったのです。iOS6までの「スキューモフィズム」、つまり、「革の質感」などをそのままレティナ・ディスプレイに映し込むような感覚のなかにリップスはいると言えます。それは画面に映っているものは明らかに「革」ではないのですが、それでもそこに「革」がリテラルな意味で表示されているような少しおかしな状況です。

【閑話休題:スキューモフィズム】

スキューモフィズムも現実世界のモノを仮想世界に視覚的表現として移そうしているので「メタファー」の一種と考えることもできます。でも、「スキューモフィズム」は向上したグラフィック性能を活かして現実世界のモノを視覚的に「そっくりそのまま」表現しようとします。なので、「スキューモフィズム」はグラフィック性能が低かったためにどうしても現実のモノをデフォルメせざるを得なった「デスクトップ・メタファー」とは全く異なるものだと、私は考えています。レティナ・ディスプレイに代表されるような高精細なグラフィクスによって「デスクトップ・メタファー」というレガシーに縛られることなく「そっくりそのまま」現実とディスプレイをつないでしまったのが「スキューモフィズム」と言うことができます。でも、「やっぱり、ディスプレイの世界は現実とは異なるものだよね」ということで、アップルは「フラットデザイン」にいったし、グーグルは「マテリアルデザイン」といった現実のモノではなく、その「質感」だけを上手くディスプレイに移植しようとした試みを始めたのではないでしょうか。(閑話休題おわり)

ネットアートの初期から作品をつくり続けて、ユーザ・インターフェイスも意識した作品をつくっているエキソニモは「デスクトップ・メタファー」の重力圏にいると言えるでしょう。エキソニモは「ゴットは、存在する。」のタイトルについて次のように言っています。

千房:「ゴット」にした理由は……これは「ゴットは、存在する。」という作品の一部なんですが、そこで扱っているのは「ゴット」であって、僕らは「ゴッド」のことはなにも言っていないわけです(笑)。だけど、「ゴットは、存在する。」って書くだけで、ほぼ100%に近い人が「神が存在する/しない。」という問題を勝手に関連づけて考えるわけじゃないですか。そこがキモで、僕らは「神が存在するかどうか」にはまったく興味がなくて、ただ「ゴットは、存在する。」と言っているだけなのね。 [インターネット・リアリティ研究会「アーティスト・トーク エキソニモ+座談会」]

出典- http://www.ntticc.or.jp/Exhibition/2012/Internet_Reality/document4_j.html

千房さんが言うように「ゴットは、存在する。」では、タイトルを読んだ人が勝手に想像を働かせて「ゴットを神にしてしまう」ことが目論まれています。「ゴットは、存在する。」は「ゴット」というどこにも「ない」ものを「ある」ものとしてしまう言葉のちからを「インターフェイス」や「インターネット」へと拡張して、そこには実際には「ない」と多くの人が考える「コンピュータの身体性や精神性」を「ある」ものとして表現する作品なのです。「ゴットは、存在する。」でのそれぞれの作品タイトルは《祈》《噂》《迷》《got exists》となっていて、これらは「リテラル」な作品説明というよりも、作品の状況・構成とヒトの感覚・感情を結びつける「メタファー」の機能を果たしています。エキソニモは多分にメタファー的なタイトルを作品につけることで、コンピュータとそのインターフェイス、そしてウェブサービスに「身体性」や「精神性」を宿らせるのです。

リップスはタイトルに関して「直接で良いタイトルは、一番意味がある。僕の好きなタイトルは、作品がどんなものであるかをはっきり説明していると同時に、アート自体と同様に、個人個人によって異なる無限の意味を持っている。その良い例は、アーティストがタイトルとして〝Untitled〟を使っていること」[MASSAGE 9, p.85. ]と言っています。リップスの作品タイトルに関して《Refreshing Darkness》を紹介しましょう。作品のサイトにいくと、「新鮮な暗闇」というタイトルが示すようにそこには「暗闇」しかありません。そして、画面は黒いままなのですが、ブラウザの「リロード」ボタンはせわしなく動いて「黒い画面」を更新し続けています。画面は変わり続けているにもかかわらず常に「暗闇」を映し出す「新鮮な暗闇」というタイトルは、文字通りの意味で作品を説明しています。それに何の意味があるかは明確にはわからないけれど、少なくともブラウザ上で起こっていることは明確に説明しています。

このような感じで、リップスの作品タイトルはとても「リテラル」な意味をもちます。「文字通り」の意味ゆえに作品を明確に説明しつつも、それをそのまま受け取っていいものかどうか、どこかユーモラスな感じになっています。ブラウザが「黒い画面」を映し続けているのは確かですが、それをそのまま「新鮮な暗闇」と名付けられても、そこに意味があるのかないのかよく分からない感じです。ずっと考えれば意味が出てくるかもしれないけれど、単に説明しているだけといえばそれだけです。でも、そこにリップスのコンピュータやネットとの距離が示されているのではないかと思います。リップスはディスプレイに映されてり、そこに映るように自分が行った行為という「そこにある」もしくは「そこにあった」ことをそのまま文字通りに説明するタイトルをつけて作品を完結させようとしているように見えます。でも、そこにどうしてもどこか説明しきれないおかしな部分が生じているのが興味深いところです。

「メタファー」と「リテラル」という言語感覚のちがいは「コンピュータ」や「インターネット」というこれまで「なかった」ものが突然目の前に現れたと世代と、生まれたときからすでにそこに「あった」ものとして考える世代ちがいなのかもしれません。

小説と詩

エキソニモは自らの作品を「小説」と認識し、リップスは「詩」と認識しています。実際に彼らの作品が「小説」「詩」なのかどうかというよりも、作品に対して「小説」「詩」という言葉を使っているとうことが重要です。ここにテキストエディトの拡張がみられるからです。

「ゴットは、存在する。」のなかのTwitterを使った作品《噂》について、千房さんは次のように言っています。

これをやった時に、プログラムとしては、単に"神"という単語を"ゴット"に置換しているだけなので、すごく簡単な仕組みなんですが……でも、これだけで「パラレル・ワールドをひとつ作れる」ことに気づいたんです。現実には"ゴット"なんて言っている人はひとりもいないんだけれど……ただ「置換する」っていう手続きだけで、みんながそう言っているような世界が立ち現われてくる。「これってなんなんだろう?」って考えた時、いわば小説世界だ、って。現実世界に対する「小説」。それがスクリプトの置換ということで、小説世界がひとつ現われる、ということ。だから僕らが作ったのは、検索結果置換表示装置、ではなくて「小説」なんだと……そういうことを考えながら作った作品です。はい。 [インターネット・リアリティ研究会「アーティスト・トーク エキソニモ+座談会」]

出典- http://www.ntticc.or.jp/Exhibition/2012/Internet_Reality/document4_j.html

テキストエディタを駆使してつくられたプログラムがTwitterのタイムライン上の言葉を置換していくと、そこにパラレルワールドとしての「小説」があらわれていく。「プログラムから小説がつくられる」というのは、とても不思議な感じです。でも、これはデジタル時代の小説のあり方なのかもしれません。多くの人がテキストを入力して、ネットに放つわけですから、わざわざ自分で文字を書く必要もなくて、そこにひとつのプログラムを投入してみると、それが全く世界をつくりだしてしまうということがあるわけです。テキストはそれ自体であたらしい世界をつくりますが、そこにプログラムというあたしい言語が絡まると、テキストが自動的に変化していき、今までとは異なるあたらしい世界がつくられるようになります。それがパラレルワールドとしての「小説」というわけです。

「プログラム」という言語表現がつくりだす「検索結果置換表示装置」がテキストエディットの枠組みを変化させるのです。「AをBに置き換える」、ここでも2つの世界の存在が前提とされています。プログラムによって実装された「検索結果置換表示装置」が、2つの世界をこれまでになかった仕方で結びつけていきます。異なるパラレルワールドをつくって、リンクしていくことがテキストエディット=プログラム=小説なのです。

ライダー・リップスは《iPhone Poetry》 、《Facebook Poetry》 、《git poetry》 という感じで、デジタルな場で「詩」をつくっています。これらの試みに関して、リップスは「今の時代や年齢の多くの人にとって、詩はあまりにも不適切。僕の「iPhone Poetry」、「GIT Poetry」や「Facebook Poetry」のような〝詩的な〟作品は、詩の適合性の問題を出して提示して、私の(私たちの)技術との関係を探っている。その結果はややキッチュなものだった」と言っています。

リップスの発言を考えてみるために、《Facebook Poetry》と《iPhone Poetry》を訳してみました。《git poetry》は私自身がgitを使っていないので、今回は訳しませんでした。

Facebook Poetry

funs
fans power your firey data centers
how many likes does it take to kill a bird
on fire we go about our pokes
burns to the ground
the stock of animal instincts


ファンたち
ファンたちはあなたの燃え立つようなデータセンターに勢い良く進んでいく
いくつの「ライク」が鳥をころす
私たちは自分のポークとともに火に入り
燃え尽きていく
それは動物の本能

iPhone Poetry

1. When I speak, my words precipitate into a bubble floating under another, bubble.
That is how we talk.


1. 私が話すとき、私の言葉は別の泡の下に漂っている泡の中に真っ逆さまに落ちる。
それが私たちの話し方。



リップスは自分の作品を「詩」と言っていますが、それは「詩」ではないような気がします。それは私が英語ネイティブではないことが大きいのかもしれないけれど、リップスが書いているものは、デジタル世界で私たちが普通にやっている行為の記述であるような感じがします。「ややキッチュなもの」、それはiPhoneであれ、Facebookであれ、そこで行なわれているということをそのまま言葉にしてみると、それが「詩的」な表現になってしまうということを表しているのではないでしょうか。

デジタルやネットができたときは、それが何だかわからないままに「メタファー」のちからを使って、リアルの言葉でデジタルを語ろうとしてきたのに対して、リップスの世代ではデジタルやネットは「そこにある」ものになっているので、リアルの言葉を「リテラル」に使うことでデジタルを語れるようになっています。デジタル以前・以後での言葉のズレが生じていることに、リップスの「詩的な」表現は気付かさせてくれます。そういった意味で、デジタルはデジタル独自の言葉つくることなく、それ以前の言葉を流用してきた結果として、デジタルで行なわれていることとそれを示す言葉とのあいだにズレがあるということです。この「ズレ」を意識させるリップスの手法は「デジタル・リテラル」と言えるでしょう。リップスは「詩」というメタファーに満ち満ちた表現形態を借りながら、デジタルの世界の行為と出来事をそのまま文字通りに記述しているわけです。このように考えてみると、やっぱりリップスの作品は「詩」なのかもしれません。


今回はエキソニモとライダー・リップスを「テキストエディット」という観点から「メタファーとリテラル」及び「小説と詩」という2項対立で分析してきました。もちろん、すっぱりと2つの項目にエキソニモとリップスが分かれているわけではなくて、もっと入り組んだ関係になっているはずです。ですが、そこをあえてズバッと切り分けてしまうことで、コンピュータとインターネットに対する2つの世代が言葉の使い方から見えてきたと思いますが、どうでしょうか。

次回予告

次回は、リップス的な言語感覚を持ちながら「デジタル・リテラル・ナンセンス」と言えるようなあたらしい感じをつくりだしているのではないかと思われる谷口暁彦さんをリップスと対比していこうと考えています。なので、引き続き、デジタル時代の「テキストエディト」のマッピングになります。

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